2007年と2008年の甲子園には常に静岡の常葉菊川の姿があり、セカンドには町田友潤くんがいました。
4季連続で甲子園に出場した中で、優勝・ベスト4・ベスト16・準優勝と甲子園でインパクトを残しました。
その中で、特に町田選手の守備は例年稀に見るレアなパフォーマンスでした。
高校生史上最高のセカントと言われながらも、甲子園での町田くんの試合数・守備機会は歴代の名手よりも多かったのは事実です。
特にエースの戸狩投手が故障して打たせて取るゲームが多かった2008年の夏は町田選手が主人公のように語られてます。
今となって、当時と現在の町田くんを冷静に振り返ってみたいと思います。
町田友潤の名前の読み方。身長171センチでも強打者!
常葉菊川で活躍された町田友潤さんですが、読み方が分からないという方が多いですね。
町田さんの名前「友潤」の読み方は「ともひろ」です。
身長も小柄に見えますが、実際は171センチと日本人の平均はあります。
名前 | 町田友潤(読み方:ともひろ) |
生年月日 | 1990年6月21日 |
出身地 | 静岡県沼津市 |
身長 | 171センチ |
体重 | 67キロ(高校当時) |
ポジション | セカンド |
左右 | 右投げ右打ち |
遠投 | 90メートル |
50m | 6秒 |
出身中学校 | 沼津市立静浦中学校 |
出身高校 | 常葉学園菊川高校 |
出身大学 | 早稲田大学(中退) |
球歴 | ソフトボール(沼津選抜)→三島リトルシニア→常葉菊川高校→早稲田大学(中退)→ヤマハ(引退) |
小柄ながらもシュアなバッティングでチームに貢献
守備職人のイメージが強い町田友潤さんですが、実はバッティングでもチームを支えました。
春選抜優勝を果たした2007年は2番に座り続け、”バンドをしない野球”の代名詞であるフルスイングでヒットを重ねました。
春の甲子園の大垣日大戦では反撃の狼煙となるソロホームランを放ち優勝に貢献し、その後の夏の地区予選と甲子園でも大切な場面で得点に絡む活躍を見せました。
3年生になると3番に座る機会もあり、再び甲子園でホームランを放つなどクリーンナップらしい役割を果たしました。
”高校史上最高のセカンド”と言われていますが、それは守備面だけでなく、攻撃面での貢献度を加えての称号なのです。
甲子園で好守備を連発し伝説の球児へ
高校2年と3年での町田くんの守備は「うまい」としか言いようがない完璧なものでした。
しかし、実は1年の秋に公式戦で7エラーを記録するなど、もともとうまい選手ではなかったみたいです。
町田選手の1年の秋といえば、ちょうど常葉菊川の監督が磯部監督が森下監督に交代した時期です。ノック達人と言われる森下監督は、ノックを見物に来るファンがいるぐらい凄い方です。
そんな森下監督のノックで鍛えまくった時期があったからこそ、2年生以降の町田選手の好守備が誕生したのです。
優勝した2年の春選抜から始まり、甲子園では66度の打球を処理し14度のダブルプレーを記録。さらには失策は悪送球の2つのみという結果を残したのです。
守備率などのデータだけを見ても凄いですが、実際には試合の中で華麗に動く町田くんを観るのが一番です。
「智弁和歌山のジョックロックを止めた男」、「セカンドに打ってしまえば望みはありません」、など、観ている人を感動させるファインプレーをいくつも魅せたのです。
4度の甲子園で素晴らしい成績を残してる町田選手ですが、実は2年の夏前には特待生問題でチームの主力が練習試合に出れなかったり、3年の春の県大会でコールド負けを喫したり、最後の夏の前で森下監督が不祥事により謹慎になったり、甲子園ではエースが怪我でまともに投げれない状態になったりと、実はかなり酷い境遇を味わっているのです。
最後の最後に夏の決勝まで笑顔でプレーできたのは、技術的な部分だけでなく、町田選手筆頭に選手たちのメンタル面が強かったからだと思います。
町田友潤はヤマハで引退。いじめで早稲田大学を辞めた説はガセネタ!
常葉菊川を卒業した後の町田選手は、その後は先輩の長谷川くん(法政)と同じ六大学リーグの早稲田に進学(スポーツ科学部)します。
プロではなくて大学を選んだという点が、シュアなイメージの町田くんにぴったりですし、早稲田というのもお似合いだと思いました。
大学進学を選んだ理由には、
「やっぱり、注目されていても自分の力は自分で知っていたので、通用するはずがないと思っていたので、しっかり大学に行って、そうした方が、後の人生にいいと思ったので。」
と語っていました。
また早稲田を選んだ理由には、
「野球も強くて、全国の人が知っているというか。知名度が高くて。それで、神宮大会があって、高校の部で、自分達が試合をした後に、早稲田大学がやっていて、それを見て、すごいなぁと思って。そこからです。」
と語っています。
しかし、町田くんはその早稲田をわずか1年で辞めてしまったのです。1年からベンチ入りするなど期待はされていたのですが・・・。
野球部を辞めた後は一時期ソフト部にいたようですが、すぐに早稲田大学自体を退学してしまったそうです。
一部では先輩にいじめられただの黒い噂がありましたが、そのことは後に本人がインタビューの中で否定してます。
大学を辞めた理由はイジメ?
古くから町田くんが早稲田大学を辞めたことは話題になっていました。あれだけ甲子園を沸かせた球児が、たった一年で野球を辞めてしまうなんで衝撃的ですね。
現在でもネットで町田選手は早稲田に潰されたと語る方が大勢います。
実際に町田くんは早稲田での大学特有の人間関係が嫌で辞めたそうです。しかし、先輩にイジメられたという説は間違いのようで、今だに連絡を取ってる早稲田の先輩はいるみたいです。
現在では町田くんは、早稲田を辞めた理由は、自分が子供で未熟だったからだと説明されています。
今では早稲田には感謝してるそうです。
余談ですが、当時の早稲田には1年先輩に静岡商業の大野健介投手も進学していたので、町田くんと揃って静岡のスター選手が集ってて楽しみでした。
2007年の夏の決勝を戦った2人が同じチームにいるなんて、静岡の高校野球ファンにとっては最高のシチュエーションでしたね!
惜しくも六大学で大野健介投と町田選手の共演は見ることはできませんでしたが・・・・。しかし、その後はヤマハ野球部で一緒になるという縁があったりするのです。やっぱり野球の神様っているんですね!
退学後はヤマハでプレー。2014年に腰の持病を理由に引退
早稲田大学を1年で辞めた町田くんはしばらくはブラブラしてたいそうです。
そんな時期に常葉菊川時代のエースの戸狩投手の進路先であるヤマハの監督が、戸狩くんに「いま町田はどうしてる?」と声を掛けたのきっかけに、その後にヤマハに入部したのです。
ユーチューブではヤマハのユニフォームを着てノックを受ける町田選手の姿が公開され、その相変わらずに美しいフォームに多くのファンが大絶賛のコメントを残しました。
しかし、当時のヤマハには社会人ベストナインを獲得した元ヤクルトの佐藤ツギオさんがおり、なかなかレギュラーを獲得することはできなかったみたいです。
結果的に2014年の12月に腰の怪我の状態が悪化したとして、25歳の若さで現役を引退されました。
町田友潤はプロドラフト候補だった?「消えた天才」で宮本慎也が指摘
町田さんの守備の動画がネットに上がると、コメント欄には「なんでプロ野球選手になってないんだ?」と疑問の声が多く上がっていました。
町田さんはあるインタビューで、プロの一流の守備を見て、プロへの未練を断ち切ったと発言していました。
2017年に町田さんは広島の菊池涼介選手の自主トレを観に行ったそうです。
間近でプロの一流選手の練習を目の当たりにすると、そのレベルの違いに驚いたそうです。
そして、そのプロの核の違いを見せられて、町田くんは野球への未練を絶ったのです。
実際に2008年頃にはプロドラフト注目というわけではありませんでした。それでもプロ志願書を提出すれば獲得に乗り出す球団はあったかもしれません。
プロで見て見たかったという意見は同意です。打撃に目をつぶって守備力で獲得した選手がプロで活躍するケースは稀にありますので。
町田は「消えた天才」「アメトーク」「キリトリ」などのTVでプロ野球選手から絶賛
そもそも町田くんというのは、少し前までは根っからの高校野球ファンとネットユーザーの間で有名な選手でした。
リアルタイムで甲子園を観てた人と、YouTube動画を熱心に観てた人からの支持が凄まじかったです。
しかし、そのアンダーグランドな壁を超えたのが、地上波番組「アメトーク」の高校野球特番です。
町田くんはアメトークの中で守備集が放送され、それ以降の知名度が急激に伸びたのです。
番組の中では高校野球マニアのアンジャッシュの渡部さんが、自身も静岡の高校球児だったアムロの方(名前忘れました)から名指しで大絶賛。スタジオにいた野球ファンもこぞって町田くんのファインプレー集を観て感激してました。
その後に念願の「消えた天才」にも出演。
「消えた天才」では元プロ野球選手で、ゴールデングラブ賞を何度も受賞してる仁志敏久さんと宮本慎也さんから守備のセンスを絶賛されていました。
仁志さんは町田さんのプレーを見て、高校生であのプレーは驚異的だと絶賛。
そして宮本慎也さんも「プロでもあの身のこなしができる選手はなかなかいない」と続けて絶賛。
そして、宮本さんは「ドラフト候補には上がらなかったのかな?」と不思議そうにしていました。
古くからネット上では「なんで町田はプロにならなかった?」「守備だけでもプロレベルでは?」という声が多くありました。
「消えた天才」で守備の達人である宮本慎也さんが改めて発言すると、「やっぱりプロの一流選手から見ても勿体無い逸材だったのか」と、さらに悔やまれました。
町田は肩の弱さでプロの世界を諦めた
町田さんがプロ野球選手にならなかったことを不思議がる声はいつの時代もあります。
テレビに出演した際にも、番組スタッフから「なぜプロ野球選手にならなかったのか?」と問われていました。
その際、町田選手は、自身の肩の弱さについて言及し、単純に自分の肩では上のレベルでは通用しないと思ったからだと発言していました。
現在は福祉障害施設「放課後デイサービス グリーピース」の社長
町田友潤さんの現在は福祉会社を立ち上げおり、そこの社長をしています。
ヤマハで現役引退した後は別の会社で仕事に勤しみ、その後に自立したようです。当時で20代半ばなので、かなりアクティブな人生・・・。
現役時代は野球通じて子供に勇気を与えたことが、本人の中で大きく残っており、今後は福祉関係で社会に貢献していきたいそうです。
事業の具体的な内容は、ハンデのある小学1年~高校3年の児童を対象に、親が仕事中の合間に遊び相手などをする施設です。すでに2つめの事業所が静岡県浜松市内にオープンしてるという、まさに町田くんの人徳でうまく行ってるような状態です。
きっかけは障害を持つ子供から声援
福祉関係の会社を立ち上げたきっかけというのが、常葉菊川で選手時代に出会った障害を持った親子でした。
ユニホームを脱いだ現在は福祉関係の会社を立ち上げ、多忙な毎日を送る。今の仕事と巡り合ったきっかけもまた、野球だったという。
「センバツで優勝した直後に、ある親子に写真を頼まれたんです。その子は障害を持っている子で、お母さんが『私たちにも、本当に励みになりました』と話してくれた。その言葉がずっと心の隅に残っていて。野球ができる間は野球を頑張って、いつかは直接こういう人たちの役に立ちたいなって」
福祉の仕事を続けつつ、いつかは母校で野球の指導に携わるのが今の目標だ。あの夏から10年。取材に口を開いたのは初めてだという“史上最高の二塁手”は、新しい夢に向かって奮闘を続けていた。引用元:ヤフーニュース
母校での指導も目標に掲げていたとのことですが、現在の常葉菊川の監督は一緒にプレーしていた1学年上の石岡さんです。
身近な先輩が監督に就任しているということで、今後、町田さんが常葉菊川に関わる機会は多そうです。
パワプロやプロスピで町田友潤を作りたい?
コアなファンが多い町田さんですが、中には野球ゲームで町田選手を作って使いたいという方もいます。
「もし町田くんがプロの世界にいたら」なんて夢を、せめてゲームの世界で叶えたいという魂胆ですね。
個人的に町田選手の能力は、
ミート B
パワー B
走力 B
肩力 C
守備力 S
といったところでしょうか?(もちろん守備には特殊能力がつきます)
ただ、町田くんの醍醐味は無駄ない美しいキャッチアンドスローです。ゲームの世界で作っても物足りないのが現実です。
ちなみにプロで対戦してみたい投手は広島カープの野村投手です。2007年の夏の準決勝の最後のバッターになってしまったので、ゲームの中でリベンジしてみたいです。