浜田が脱走した日生学園のスパルタ伝説。事件/事故と有名な卒業生一覧

かつて三重県に存在した(現在は改名)日生学園第二高等学校。

過去に何度もメディアで”スパルタ学校”として取り上げられ、さらにはネット上には日生学園の壮絶なエピソードが繰り返し語り継がれています。

今日は、日生学園の伝説のスパルタ教育と、その背後で起きた事件や事故について書いてみます。

また、日生学園を卒業した有名人についても書いてみたいと思います。

日生学園第二高校のスパルタの実態。朝から長距離走、大声で掃除、素手で便器拭き。

日生学園第二高等学校は1980年に、青田強さんにより設立された超スパルタ教育の高校です。

設立者の青田氏の「一流の人間を育てる」「生徒には太陽のように明るい存在になって欲しい」との想いをベースに、アグレッシヴな行事と声出しがトレードマークになっています。

軍国主義を体験した世代であることから、その影響で私欲を捨て去り公に尽くすという考え方を信念にしたとされています。

学園の敷地内には青田校長の大きな絵や銅像が建てられ、日生学園の象徴的存在として認知されていまました。

当時の名称 日生学園第二高等学校
設置者 学校法人日生学園。青田強。
設立日 1980年
共学 男女共学(寮は男女別)
課程 全日制課程
単位制・学年割 学年割
設置学科 普通科
学科内専門コース 特進S。特進。進学。
学期 3学期生
学校所在地 〒515-2692 三重県津市白山町八対野2739

青田強氏の死後、息子の青田進さんが信念を受け継ぎました。

大声でのマラソン登校、半裸での体操&床拭き、素手でのトイレ掃除

日生学園の学校生活は一言で言えば「軍隊」のようです。

男女共学ではありますが、全寮制のため、寮は完全に別です。

朝は4時から起床なのですが、起こされる際は大声で集合が掛けられ、ベッドから飛び出し寝巻きのまま整列

そのまま大きな声で点呼確認を行うなど、朝から油断できない緊張感を味わうことになります。

登校は6時45分に、全体で行います。

男女別に大声でマラソンする形での登校となります。

入学当時はふくよかな生徒も、入学してすぐに痩せてしまうそうです。

その後に全力体操と言われる、全体で規則的に並び、大きな声で揃えた体操を行います。

また、早朝には”晨行(しんぎょう)”と呼ばれる、全力で床やテーブルを磨く風習もあります。

”心行”は各寮の部屋10分間と、各階の廊下等を10分間おこなった後にも全生徒で行います。

大きな声で、かけ声をかけながら、全力でやらなければ鉄拳が飛んできます

全体でも体育館に集まり約1時間もの時間をかけての心行を行われています。

この行事の意味としては、”雑念を取り払い自己の集中心を養う”という目的があるそうです。

そして、有名な”素手でのトイレ掃除”

心行は朝や午前中だけでなく、下校して寮に到着し点呼が終わった後にも、素早くジャージに着替えても行っていたそうで、朝から寮に戻ったまで気が抜けない生活模様となっていました。

校則とルール。3年生は神様、2年生は一般人、1年生は奴隷。洗濯物やマッサージの世話

日生学園には特殊な校則が存在していまいた。

机から足が出てはいけない、下着は学園指定の色のみ(白)で、髪型は男子は坊主で女子はショートと決まっていました。

買い物は、購買部を通して”学校生活に必要な最低限の物”のみ許されました。

雨の日には傘・カッパは禁止されるなど、かなり理不尽なルールがあったのです。

生徒は寮と校舎を行き来するだけの生活で、世間から隔離されていたため世間を「山の下の世界」という意味も込めて「下界」と言っていたそうです。

日生学園は上下関係が厳しいことでも有名です。

私生活や行事ごとがたるんでいると、上級生から容赦無く鉄拳が飛んできます。

また、先輩の洗濯物など身の回りの世話も下級生が行わないといけない決まりでした。

食事は先輩たちが食べ終わった後で、入浴も1年生は湯船に浸かってはいけません。

先輩によっては寝る前にマッサージをさせたり、靴下を履かせたりする人もいたようです。

学校の行事だけでも精一杯な中、厳しい上下関係も乗り越えないといけないという、絶望的な環境なのです。

都市伝説。浜田の母校に起きた事件/事故

スパルタ教育で有名な日生学園ですが、多くの事件や事故が起きていることでも知られています。

日生学園に進む生徒の多くが、中学までに非行に走っていたということで、世間的には”強制収容所”のようなイメージを持たれ、関西では親が子供を叱る際に「日生学園に入学させるぞ」との脅し文句も定番になっていたそうです。

元々ヤンチャな子が多く進学していたということで、そこのコミニュティで上手くやれない子は地獄を見ることになるということです。

1985年には第二高等学校の教師が週刊現代に内部告発し、生徒だけでなく、教師までもが暴行やリンチに関わっていたことが発覚しています。

週刊誌によると、1984年の4月から1985年の9月にかけて、日生学園にて教師や生徒による暴力や集団リンチ・事故死・脱走・自殺等があったとのことでした。

その問題は、1980年代に国会答弁で話題に上がるほどでした。

日生学園で自殺が多発。先生・教頭・先輩からの虐めや体罰

日生学園の厳しい生活に耐えられない生徒が、自ら命を絶ってしまうこともあったそうです。

頻度としては数年に一回程度で、意外にも多くはありませんが。

自殺の詳細は明らかにされていませんが、先輩や教師からの体罰(暴力)・リンチが発生していたということで、それらが理由で学園生活に絶望し死を選んだと想像できます。

ちなみに発覚していた暴力・体罰の内容としては、

肩パンや平手うち

・寒い季節に水攻め

・パイプ椅子で殴られる

・ホッチキスで刺される

・一晩中正座を命令される(ほうきを膝の裏に挟ませることも)

などです。

一般の教師だけでなく、なんと教頭先生も、怒りが爆発するとベルトを引き抜き、金属製のバックルを頭目掛けて叩きつけるなどしていたそう。

教頭は生徒の血が止まらない状況でも、ハンカチなどで押さえることも許されなかったそうです。

さらにビックリなのは、勤めてる先生たちもスパルタな扱いをされていたということです。

先生たちも生徒たちよりも1時間早い3時に震行を行っていたり、遅刻をすると教頭から激しい指導が入っていたのです。

生徒たちの点数が低いと先生が酷い目に遭うということで、テストでは生徒たちのカンニングが黙認されているなどしていました。

夜中にシャッターに挟まれた生徒が圧死

日生学園で起きた不審死事故として有名なのが、”シャッター圧迫死事件”です。

状況としては、夜中に生徒が食堂に忍び込み、食堂の出入り口に設置されていたシャッターに首を挟まれ圧死していたという事です。

一見、お腹を空かせたヤンチャな生徒が、夜中に食堂の食用を盗るために忍び込み、その際にシャッターに挟まれてしまったという背景が浮かびます。

しかし、亡くなった生徒は真面目なタイプでヤンチャをするような生徒ではなかったのです。

そのことから、当時から”いじめではないのか?”、もしくは”命令されて忍び込んで事故に遭ったのでは?”との憶測が囁かれていました。

国勢調査や行政指導の過去。私学助成金交付の停止または保留

1985年に在籍していた先生が週刊現代に学園の実態を告白したことで、学園は世間から批判されました。

先生の内部告白を受けて、国会議員や弁護士会による調査や、参議院文教委員会及び決算委員会における事件の報告が行われました。

この問題に関して、三重県は学校法人日生学園に対し、私学助成金交付の停止または保留の措置を講じました。

また、三重県から日生学園第二高校校長に対して学校の管理体制を見直すよう求める文書が交付されました。

 

その他の日生学園の伝説。カンニングOK、甘い物の密輸、買い物許可制、教師へもスパルタ。

 

甘い物が禁止されていたそうですが、親に仕送りをしてもらう際に、枕の中などに砂糖などを隠してもらい密輸していたそうです。

今田耕司さんがテレビで”先輩の枕が大きい理由は砂糖を隠してるから”と語っていたことがありました。

日生学園の有名な卒業生とエピソード。芸能人やスポーツ選手多数

日生第二学園高校の卒業生には、ダウンタウンの浜田雅功さんが有名ですね。

実は後輩の今田耕司さんや、その他にもプロスポーツ選手など多数輩出しています。

日生学園のOBで有名な方を在籍していた年度別にまとめてみました。

浜田雅功(芸人) 1979〜1981年(第2期生)
今田耕司(芸人) 1981〜(1年で中退)
中田なおき(芸人) 1982〜1984年
日向まこ(女優) 1984〜1987年
鮫島秀旗(プロ野球選手) 1989〜1991年
赤松芳朋(ミュージシャン)
1989〜1991年
伊藤元昭(実業家)
1989〜1991年
長谷川豊(アナウンサー)
1990〜1992年
酒井和貴(ゴルファー)
1990〜1992年
山口賢一(プロボクサー)
1996〜1998年
千葉和彦(サッカー選手) 2001〜2003年
鈴木康太(ラグビー選手)
2001〜2003年
川畑隼人(プロバスケ選手)
2002〜2005年
尾崎瑛一郎(サッカー選手) 2003〜2006年

浜田雅功の日生学園のエピソード。脱走して”うどん”をひとすすりで食べた

日生学園の逸話については、ダウンタウンの浜田雅功さんのエピソードは欠かせません。

浜田さんは下級生の頃からカリスマ性のある先輩に可愛がられ、さらには3年生になった頃には副寮長を任されるなど、比較的に恵まれた環境で過ごしたとされています。

しかし、そんな浜田さんも脱走を試みたことがあったそうです。

1週間の休みの期間が終わった後に、学校の駅を降りれず、松本人志さんにお金を借りてやり過ごそうとしたがあったのです。

「脱走というか、(寮に)帰らなかったんです。帰らなかったんですけど、引き戻されたんです」

「休みがあって、1週間ぐらい家に帰れたんよ。で、ウチの相方とか周りの人間と遊ぶやん。でも、明日あの三重の山奥に帰らなあかんと思って、めっちゃ憂鬱で。で、1回とりあえず近鉄電車には乗ったけど、降りられへんねん、学校の駅で。次の駅で降りて、折り返しの電車に乗って戻った。(大阪の)鶴橋駅に」

浜田さんは学校の駅で降りれず、そのまま次の駅で降りて松本さんにお金を貸してくれと電話でお願いし、迎えに来た松本さんにうどんを奢って貰ったのですが、そのうどんが美味しすぎてひとすすりで食べてしまったそうです。

また、休みから下界(地元)に降りた際に、歯磨き粉が3色になっていたことや、好きな芸能人がセクシーな写真集を出していたことに衝撃を受けたという、まるで仮釈放された囚人のように語り共演者をドン引きさせていました。

昔に日生学園時代の怖い先生がスタジオに遊びに来たことがありました。

芸能界の大物にも食ってかかる浜田さんも、この時ばかりは怯え切っており、最後まで気を使っていました。

今田耕司は命掛けの脱走も引き戻され殴られる。先輩の枕には砂糖が隠されていた?

芸能人の日生学園の卒業生には浜田さんが有名ですが、実は後輩芸人の今田耕司さんも在籍していました。

今田耕司さんはあまりにも厳しい学園生活に耐えられなくなり、1年生の頃に脱走を決意。

真っ暗な闇のような夜道を、勘に頼って下って行ったそうです。

見回りの車のランプを見かけた際には、一か八かで真っ暗な茂みに体を投げ出すなど、まさに命掛けの脱走劇を繰り広げました。

一度目の脱走は失敗しましたが、2度目は夜中に寮のトイレの窓から脱走し、山を2つ越えた先の駅(近くの駅だとバレるため)で電車に乗り、大阪の実家にたどり着き成功。

しかし、母親が学校から呼び出され、先生に「息子がやめない(学校を)と言うまで殴ります」と宣言し、数発目で今田さんは「辞めません」と断念したとか。

その後は無事に学校を辞めて別の学校に編入したそうです。

ちなみに今田耕司さんは、在籍時代に先輩の枕が大きいことを気にしており、調べてみた結果、先輩は下界に降りた際に砂糖を持ち込み、それを枕に隠しているとの真相を突き止めたそうです。

卒業生はメディアで高校時代をネタとして語る。千葉や尾崎は浜田の番組で歌を熱唱

日生学園の壮絶な思い出をメディアで語るのは浜田さんと今田さんだけではありません。

日生学園のサッカー部からプロのサッカー選手になった千葉和彦さんと尾崎瑛一郎さんも、厳しい高校時代について言及したことがあります。

千葉さんと尾崎さんのお二人は、2023年8月に浜田雅功さんが司会の「ジャングスポーツ」に揃って出演しました。

千葉さんは薬を入れる物に、白いマーブルチョコや白いラムネなどをこっそり混ぜて持ち込んだ話をしていました。

そして尾崎さんはじゃがりこなどのお菓子を唾液で湿らせ、音に立てずに食べていたエピソードを話していました。

また、2人揃って寮歌を歌うワンシーンがあったりと、インパクト抜群でした。

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