歌舞伎町の元祖カリスマ・頼朝さん。
頼朝さんは夜職でありながらもメディアに多く出演した開拓者です。
サンジャポなどでお馴染みとなり、頼朝さんは「頼朝社長」と呼ばれ、バラエディで愛されるべきポジションを保持していました。
今日は、頼朝さんがどんなことをして伝説になったのか?
そして、そんな頼朝社長は過去に行方不明になっていたという都市伝説があり、その噂の真相について書いてみたいと思います。
シャンパンコールの産みの親。脱サラして借金600万を返済
もともとは、一般企業でサラリーマンとして働いていた『頼朝』さん。
1995年に詐欺にあったことで借金600万を抱え、何としてもお金が必要で、サラリーマンと二足のわらじで渋々ホストを始めたのです。
当時『頼朝』さんが入社した「TOPDANDY」で、NO.1だったのが、なんと以前バイト先で一緒だった後輩で「こいつ(かつての後輩)だけには負けたくない!」という一心で、入社後すぐにNO.1の座を奪い取ったのです。
源氏名 | 頼朝 |
本名 | 洋一郎 |
生年月日 | 1971年8月5日 |
出身地 | 東京都 |
血液型 | A型 |
身長 | 176センチ |
出身大学 | 法政大学法学部 |
在籍店を有名グループに押し上げた。シャンパンコールなどを発案する
トップダンディーのナンバーワンになってからは、全国的に名を馳せるカリスマホストになりました。
2000年代半ばのホストブームが始まる前ぐらいから有名になり、当時のホストブームの時代に、ホストを志した人の間ではアイドルのような存在のようです。
今でこそ在籍していた大手ホストグループ「GROUPDANDY」は業界トップのお店ですが、当時『頼朝』さんの存在が無ければ、現在の姿があるどころか「TOPDANDY」の存続すら危なかったのです。
現在のホストクラブでは「シャンパンコール」は定番のイベントですが、これも『頼朝』さんが発案して始まったのだから驚きです。
トップダンディを退店した後も、自身でお店を経営するなど、社長として活躍されました。
頼朝社長が失踪した事件の真相。全店を手放す原因は?
メディアでも人気のカリスマであった頼朝さんですが、過去に失踪して周囲を心配させたこともあります。
が、その当時の事件は未だに謎だらけなのです。
実際に頼朝さん本人からの公言はなく、大きなニュースにもなっていませんでした。
ただ、その失踪事件の後から、自身のお店を全店手放したことで、何か裏との関係があったのでは?と言われています。
頼朝は行方不明になった後に自分のお店を手放す
頼朝さんは現役10年目を迎える2005年に自身のホストクラブ「竜宮城」を立ち上げ、独立しました。
竜宮城は歌舞伎の中でも有名な模範店となり、現在のホストクラブ業界の基盤やシステムは、すべてこの「竜宮城」から出来上がったものだとされています。
しかし、そんな竜宮城は2011年に閉店。
その理由には都市伝説が存在し、それは当時の歌舞伎町に存在した「ケツ持ち」と呼ばれる暴力団の存在との関わりです。
噂では、『頼朝』さんが裏の部分に触れてしまい、惜しくも全系列店も手放すことになったとのことです。
失踪していたのではなく実業家として忙しかっただけ?
お店を全て手放す前後から、頼朝さんをメディアで見る機会が減りました。
一時期はブログなどを含めて、どこからも消息が分からない時期もありました。
しかし、同じ時期に歌舞伎町に「たいよう整骨院」を開業したり、日本ソムリエ協会認定資格ソムリエ資格を取得したりしていたことが明らかになったのです。
2012年には、ミクロネシア連邦観光親善大使に本名にて任命され、イタリアンレストランや、アパレルのプロデュースなど行うなどしていたのです。
頼朝さんが表舞台から消えた理由は、次のステップに進む為の準備や仕事に忙しかっただけとの見方が現実的です。
現在の頼朝は夜の世界を離れ実業家として活躍されています。
また、トレードマークの目力を、あえて整形して小さくするなど意外な行動に出ています。
10年前にいったん歌舞伎町を離れて、銀座でさまざまな業種のプロデュース業を始めたころ、実は自らの戦略で整形して二重まぶたの幅を狭めたんです。
銀座でビジネスするのにあの“目ヂカラ”は必要ないと思って(笑)。
もう少し優しい目で柔らかい表情が少しでもできるように、キャラ設定を変えました。
黒髪が常識の街ですが、目立ちはしないといけないので髪はハイトーンという(笑)。
戦略的に顔の印象を変えるなど、仕事に対する徹底ぶりは相変わらずです。
現在も在籍していたトップダンディは、仕事のリテラシーが高く、厳しいお店として知られていますが、これも頼朝さんの時代から続く伝統のようです。