神奈川の厚木生まれの多村仁志さんは、地元神奈川に愛された選手です。
もともとベイスターズには横浜高校出身の選手が多くいますが、多村さんもそうです。
横浜高校時代は同じくプロに進んだ斉藤宜之さん、紀田彰一さんと最強のクリーンナップを組みました。
横浜高校での多村さんは1994年に3年生の春夏連続で甲子園に出場しました。
高校通算14本塁打と、意外にホームランの数はおとなしいですが、当時からハイアベレージを残すなど、非凡な才能を発揮していました。
プロ入団後は怪我の多さから「スペランカー伝説」たるものが存在してますが、実は横浜高校時代も同じだったのです。
プロ入り前に横浜高校の体育祭のリレーで転倒し、そのまま靱帯を痛めて救急車で搬送されたことがあるそうです。
さらには高校三年の夏に、神奈川県大会優勝時に歓喜の輪に入ろうとセンターからダッシュし、足が吊ってしまい輪に入れず、そのあとの校歌を歌うシーンにて、多村さん一人でマウンドにうずくまるということがあったみたいです。
横浜高校を卒業した後は、1994年のドラフト4位で横浜ベイスターズに入団しました。
多村仁志のスペランカー伝説
多村さんのスペランカー伝説のコピペはネットでも有名ですね!
新人時代
1997年 5/21 外野からスローで返球、肩の骨にヒビが入る。一年間一軍に戻ることはなかった。
・1997年オフ 痛めていた右肩にボルトを入れる手術。本来はボルトを埋めるほどの怪我とは考えられなかったが、開けてみたら思いの外悪かった。
・1998年シーズン リハビリのため試合出場無し。
・1998年に優勝したときは、手術して病院にいた
2003年
・5/14 左手親指のじん帯断裂で二軍落ち
・8/ 5 腰痛で途中交代
・8/11 左手首痛でスタメン落ち
・8/22 脱水症状
・9/15 肩痛でスタメン落ち
・9/23 発熱でスタメン落ち
・9/25 スタメン復帰、死球で途中交代
・10/6 風邪でスタメン落ち。そのままスタメンに戻ることなく全日程が終了
・この年からの活躍は「多少痛くても『痛い』と言わないこと」を覚えたため
2004年
・2/27 ポスター撮影中にジャンプして右足関節捻挫
・4/30 試合中、突然カゼをひいて退場→診療所で点滴
・5/ 3 キャッチボールでぎっくり腰、登録抹消
・6/ 5 フェンスに激突でセルフエルボー、途中交代
・6/24 前日の試合で空振りした際に肩を痛めスタメン落ち
・8/11 試合前の練習中に腰を痛めてスタメン落ち
・8/28 ファインプレーをした際に膝を強打し途中交代
・9/19 ストライキの際の握手会で左掌が炎症し、その後2日連続スタメン落ち
・この年に「ベッカム・カプセル」を400万円で購入する。
2005年
・1/ 1 寒川神社に初詣に行き家族の健康などを祈願するが、自分がインフルエンザに罹患
・2/11 沖縄で野球教室を開き、肩に野球バックを掛けたまま何百人にサインした結果、左肩が内出血。
・3/30 全試合出場を目標に掲げていたが、開幕直前にインフルエンザに罹り緊急入院。開幕三連戦の出場を断念。
・4/24 サードゴロを打ちヘッドスライディング敢行するもアウト。右肩負傷で途中交代。
・5/6~7 GW中からの発熱を押して出場するも無理がたたり気管支炎に悪化し、欠場。
・5/20 センターからバックホームの際、右肘を痛める。
・6/4~5 痛めた右肘の影響か、DHとして出場。
・6/14 自打球を右足甲に当て途中交代。
・6/21~ 疲労をおして出場を続けるも、靴紐を結ぼうとした際にぎっくり腰を発症し、自宅休養。翌日登録抹消。
・6/29 横須賀の練習場へ向かう途中、愛車が雨でスリップし、側壁に衝突。エアバッグの衝撃で左顔面と左肩を打撲。
自分で119番し、検査のため緊急入院。自身初の新聞一面に
後に語る「スリップしたとき死んだと思ってハンドルから手を離したが家族の顔が浮かんでまたハンドルを握った」
・7/ 2 プロレスラーの入場曲を打席に入るときに使用していた、それを聞きつけたカート・アングルが来日して始球式を行うが、入院中の多村は会えず
・8/28 健康診断で飲んだ造影剤で気持ちが悪くなり、試合を欠場
2006年
・1/16 ライブドアとマネジメント契約を交わす。しかし一月もたたないうちに、 ライブドアが証券取引法違反の疑いで強制捜査される
・4/ 6 左耳付け根付近の腫れ物のため途中交代
・4/ 7 耳にデキモノ(炎症性アテローム)で39度の高熱。一打席だけ試合に出るが途中交代
・4/ 9 4/8に出塁した際、帰塁時に首・肩を痛め、代打のみの出場
・4/20 打撃練習で左肋軟骨挫傷のため出場選手登録を抹消
・6/ 3 打球を追いかけた際に左足首捻挫。途中交代。
・6/ 7 捻挫からの復帰第一打席後、本塁突入の際、捕手と激突し古傷の左脇腹を痛めて退場。検査の結果左肋軟骨挫傷の疑い、前半戦絶望。
復帰からわずか30分の一軍出場となった。
・8/19 東スポに多村 江原啓之に霊視をお願い記事を載せられる
・8/20 先日19日に二ヶ月振りに一軍復帰も死球を受ける。20日には腰痛のためスタメン落ち
・8/27 スタメン復帰4試合目、ベースランニング中に左足の内転筋に強い張りを感じたため途中交代
・10/24 右腰痛、秋季練習を欠席→病院でX線検査。神経ブロック注射で治療する
・12/5 寺原隼人と1対1の交換トレードが成立、ホークスへ移籍
多村のホークスに移籍に関して、王監督の談話「フル出場してもらう。」
2007年
2/12 右足かかとに異変→右アキレス腱周囲炎(トレーナーの話だと、靴擦れ?)
3/ 5 おやしらずを抜くも翌日OP戦で移籍後初ホームラン
3/13 一回の打席で自打球を左足に当てる→病院送り
3/17 試合前の守備練習で右手中指を負傷。
4/ 4 歩幅が合わずにやや大股でベースを踏む→すべって怪我
4/30 守備でボールを追っかけ、スライディング→左太もも裏を痛めてベンチへ退く
5/19 セカンドベースへスライディングし二塁手が倒れるも、下敷きになり負傷
6/20 視覚障害者を球場に招待→自打球を左ふくらはぎに当て、負傷で途中交代
11/22 野球日本代表に選ばれ、ヤフードームに凱旋の予定も腰痛が悪化し、練習キャンセルでスタメン落ち
11/25 腰痛で日本代表から外れる
2008年
・1/31 右肩違和感で二軍スタート
・2/27 右目のものもらいの治療で欠場
・3/28 花粉症
・4/02 左ひじに死球を受け退く
・4/18 腰痛により欠場。
・4/25 飛球を追い掛けて左翼手と接触し途中交代した→右足の腓骨骨折で前半戦絶望
・5/12 四週間で骨がつく予定→レントゲンを撮っても再生すらしていない。
・オフ ボディービルで「肉体改造計画」 ボディービル王者に入門しパワーアップ目指す
2009年
・2/11 右肩に張りを訴えたため、シートノックを二日間休む
・2/16 両足のすねなどの違和感で練習を早退。全体練習開始前にリアイヤ
・2/26 左手首違和感のため紅白戦出場を回避
・3/10 首の寝違えで二試合欠場
・3/24 全身の張りを訴えて試合を欠場。残りのオープン戦は全部出る事を宣言する
・3/25 宣言からわずか一日、牽制の歳の帰塁で右肩を痛めて、次の日のオープン戦
を欠場
・3/29 肩の違和感でオープン戦欠場
・3/31 25日に痛めた右肩が炎症し、開幕絶望。出場選手登録名簿から外される
・5/23 一軍復帰二試合目で、守備の時に逆シングルで腰を痛めて途中交代
・5/24 フェンスに激突し、翌日に頸椎の痛みで試合を欠場
・6/16 体調不良を訴えて試合を欠場。多村「いろいろあるし、言いたくない」
・7/ 4 自打球で途中交代
・7/31 体調不良と背中の張りでを訴えて試合を欠場。8/2までスタメンから外れる
・8/18 体調不良を訴えて試合を途中交代
・8/19 気管支炎による発熱でスタメンを外れる
・8/30 三打席で川崎が牽制アウトになり、球団公式サイトの試合経過で多村「終了」と書かれる
・9/ 3 2死球を受けて、翌日はスタメンを外れる
・9/ 9 腰を痛めるも強行出場したが、自打球を受ける
・9/10 先日の自打球により欠場
・9/29 先発メンバーに発表されるも、発熱で守備にも打席にも立たずに交代
・秋山監督からクライマックスシリーズのキーマンに指名される
・10/16 クライマックスシリーズ第一戦左腰痛で先発から外される、球場にも向かわず、ホテルで観戦
・シーズンオフに秋山監督から「来年は肉体改造して、全試合に出場しろ」と怒られる
2010年
・3/ 6 ボールを投げた時に人差し指の爪が割れた
・3/30 全部試合フルイニング出場を目指していたが、寝違えで早くも頓挫
・4/17 三振の際に腰に違和感
・5/30 自打球を足に当て途中交代
・6/ 6 首痛で途中交代、翌日スタメン落ち
・7/17 2打席途中交代、翌日スタメン落ち
・8/ 8 スイングの際に右足を捻り途中交代
・8/13 腰を痛める
・8/14 無理をおして出場するも3三振
・8/24 初回に二年ぶりの満塁本塁打を打つも、右腕の痛みで途中交代
2011年
・2/20 左肩の痛みで別メニュー調整
・3/14 広島との全体練習で死球を受けて全体練習へは不参加
・3/19 体調不良で休養
・5/10 空振りの際左肘を痛め途中交代
・6/ 1 足に自打球を当て途中交代
・6/ 8 左手小指に死球で途中交代、裂傷で縫合手術を受け登録抹消
・6/15 チームの交流戦優勝に立ち会えず、集合写真にユニフォームだけ参加
その時の写真
・7/10 二軍で試合に復帰して安打を放つも、打った衝撃で痛みを感じる
・10/6 自打球で左足小指を骨折
多村仁志のトレードと200号
横浜DENaベイスターズに2013年から出戻りした多村仁志選手。
チームに才能あふれる若手が増えた現在も、多村仁志選手は代打などで活躍しており、代打で多村が登場する際の横浜スタジアムの雰囲気はすさましいと言われている。
そんな多村仁志選手だが、2015年4月の今の時点で、通算ホームランの数は195本。
2015年の今年中に200号本塁打を達成する確率が高いとされている。トレードの噂も出ているが、その移籍先の候補にはオリックスが予想されている。
しかし、多村仁志選手のトレードに否定的なファンも多く、本当にトレードに出されるかは不明である。
200号目前ということで、この記録は古巣の横浜にて達成してほしいと、願うファンが多くいるのだ。
怪我が多いことで知られる多村仁志選手だが、持ち前の美しいバッティングフォームは、38歳になった今でも健在で、未だに、健康的に出場さえ出来れば、他の若手に負けない活躍ができると言われている。
多村仁志のバッティングフォーム
多村仁志選手のバッティングフォームは、足をクッと上げた状態から、軸のブレない、シュッとした形で、右から左に柔軟に打ち分けられる。
かっこいい打撃フォームの話題には、必ず多村仁志選手の名前が上がり、横浜ファンの子供がフォームを真似する光景はよく見る。
もしだからという言葉が使えれば、多村仁志選手は天才とも言われているので、その怪我の多さは残念としか言いようがないです。
仮にオリックスにトレードされるとしても、200号は横浜に在籍してるうちに達成してほしいと、個人的には思っています。
仮にトレードで横浜を出て行ったとしても、引退の最後は横浜のユニフォームを着ていてほしいです。
多村選手厚木シニアから横浜高校まで、野球人生は神奈川が原点となっているので、
神奈川で始まり、神奈川で終わる、野球人生も素晴らしいと思います。